私たちは,抗がん剤(がん薬物療法)の副作用である「しびれ」の対処法について研究を行っています.しびれは末梢(まっしょう)神経障害による症状のひとつです.その発生率は抗がん剤の種類によって異なりますが,代表的な薬剤を例にあげると,パクリタキセルを使用された方の43.8%(タキソール®)/60.8%(アブラキサン®),オキサリプラチンを使用された方の96.6%(エルプラット®)に末梢神経障害がみられたと報告されています(各薬剤の添付文書より).さらに,原因となっている抗がん剤の投与を中止・終了しても症状が持続する場合があり,多くの方が長期にわたってしびれを体験していることが知られています.これに対して,末梢神経障害の予防や治療に有効な方法は十分に確立されていないのが現状です.
そこで私たちは,しびれと付き合いながら社会生活を送っておられる体験者の方々の生活の知恵に着目しました.がん治療は身体的にも心理的にも患者さんに大きな影響を与えますが,これまでの数多くの研究が,がん治療によって変化した心身の機能や症状に対して患者さん自ら試行錯誤し自分に合った対処法を見出していることを示しています.このような体験者ならではの工夫・取り組みは,しびれによる困りごとを抱えておられる他の体験者の方々やしびれを生じうる抗がん剤治療を開始される方々にとって非常に有益な情報になると考えました.その反面,個人の生活経験の中で編み出された工夫や取り組みは個別の状況を強く反映しており,そのままでは他者が取り入れることが難しいという課題があります.この課題を克服するために,後述する「オントロジー」を活用して一般化を試み,個別の工夫や取り組みの中から共通性の高い“生活の知恵”を抽出したいと考えています.
このプロジェクトでは,4年間の研究によって,しびれに対する体験者の方々の生活の知恵を共有できる看護システムを開発することを目的としています.開発した看護システムはオンラインでアクセスできる計画としており,タブレットやパソコン等の電子端末上で閲覧・操作することができます.この看護システムが体験者の皆様にとって自分らしい生活を取り戻し,社会生活を送りやすくなるための一助となれば幸いです.
オントロジーとは元来哲学用語で,存在のあり方を論じる学問ですが,情報工学では,物事の基盤となる概念の体系を明示化したものという意味でとらえられています.例えば,この世には「出来事」と「物」と「性質(属性)」の三つが存在して,出来事には,現象や行為があり,物には自然物や人工物があり,それぞれには固有の性質があり,相互に様々な依存関係にあることを明示的に表します.それを工学的に応用する学問がオントロジー工学です.
オントロジー工学では様々な分野に固有の概念を抽出して体系化します.特に応用を意識したオントロジー工学では概念の抽出に加えて,目的に適した構造化を行いますが,本科研で扱うがんサバイバーの生活を対象とする場合には,生活を構成する行為を抽出し,構造化します.具体的には行為を部分行為に分解して,全体行為とそれを実現する部分行為列から構成される行為分解木を構築します.この操作によって,がんサバイバーの生活を構成する必要十分な種類の行為を抽出し,それらを全体・部分関係として関連付けて,木構造に組織化することによって,行為の目的や手段などを明示的に取り出して,一般化することが可能になります.
この行為分解の考え自体には高い一般性があります.生活は一般の人の行為ですが,看護行為を対象にすれば看護行為を分解木を用いて構造化することが可能です.さらに進めて,行為は人間が行為者ですが,薬剤が及ぼす生理的・化学的反応に関して,薬剤を行為者と見なし,反応を行為とみなすと行為分解と同様の分解木を構成することができます.このように,オントロジー工学に基づいた概念の体系化技術,特に行為分解技術は看護の分野において広く応用できる可能性があります.
(溝口理一郎)